最近、Pythonを使ってデータ分析をするのが楽しくて仕方ない。
それはきっと、「なんとなく」が許せない性格からだと思う。
前職では、中小企業のコンサルをしていた。
従業員1〜10名ぐらいの会社の社長と月に1回会ってお話しする仕事。
1人30〜60社担当を持っていたから、客先で話すことは、ある程度パッケージ化されていた。
もちろん、会社によって困ってることは違うから、イレギュラーな相談も降ってくる。
そうなるとぼくたちコンサルが取るのは、それっぽい言葉を紡いで、自分達の型に引き戻すこと。
コンサル=詐欺、口だけ、偽物
というイメージがあるのは、「それっぽい言葉を紡ぐ」からなんだと思う。
もろちん、人間だから全てをロジカルに説得することができない。
主観と客観が混じり合うのが、人間。
コンサルも人間であるから、主観が混じるのを否定はできない。
「でもな〜…」と感じながら、2年間を過ごした。
日々新しい気づきや学びはあった。
でも、それ以上に「器用貧乏路線」を走る焦り、不安があった。
多くの情報弱者の中小企業の経営者にとっては、「それっぽい言葉」が自社の利益に繋がることもあったから、悪いことをしてるわけではない。
いやむしろ、そうした仕事によって、ビジネスモデルが成立して、売上が生まれて、お給料がもらえて、利益が出て、会社が続く。
だから、ここでコンサル絶対悪説を唱えたいわけじゃない。
ちょっと話が逸れてしまったので、本題に戻すと、
最近データ分析やPythonにはまっているのは、「見ること」が好きだから。
見るものは、過去だったり、現在だったり、未来だったりするけど、自分の目で確かめずにはいられない性分なんだと自己分析。
大局を掴むことが、要量の良い「デキる人」であると常々考えていて、自分はまさに「デキない」人だなと思う。
でも、自分の目で見ることはやめられない。
だって、これは本能だから。なんて正当化の日々。
まだまだ「見る」力は足りなくて、社会的な利用価値はないに等しいだろうけど、その日々はとても楽しい。
ネットや誰かに聞けば、すぐに「だいたいの答え」を教えてくれる。
何時間もかけて手を動かす必要なんかない。
多分、自分が知りたいと思っていることは既に誰かが知っていることだから。
でも、見たいものを見にいく過程の「夢中」は、やっぱり自分の手を使ってでしか得られない。
https://papermount.hatenablog.com/entry/2022/06/18/073311
前にもここに書いたように、「自分の手を動かす」という手段を目的化していくんだろうなと思う。
でも、やっぱりその行為も努力として報われたい。
わがまま。大変なわがまま。
「自分の手で」、「報われる」は、とてつもなく険しい道だと思う。
もっと上手な生き方があると思う。
でも、上手に生きたいわけではない。
夢中で生きたい。夢中でいること、上機嫌でいることが、自分自身の幸せだと考えているから。